今後の課題と危惧

課題は大雑把にいって二点あります。まず、一番めの課題は一般の技術者 向けの「多様体論」や「コホモロジー論」の やさしい教科書 の作成です。 通常この理論と技術の習得には非常に高度な数学的訓練を必要とするため、 例えば大学を卒業した現在22才の日本全国の若者のうちで問題の状況に 応じて新しい「コホモロジー」を自力で作れる程度にそれらを駆使できる のは多分50人にも満たないというのが現実でしょう。そのようなわけで、 やさしい教科書を通じてこれらの理論や技術に慣れ親しんだ人材を工学や 生命科学方面でも育成することは21世紀に向けての準備として急務と思わ れます。(ただし素材がかなり抽象的なものだけに書き方などの点でかなり の創意と工夫が必要になると思われます)

第二の課題として、未だに進展中のこれらの「理論」と「技術」の 研究の最前線を担う若手の研究家の育成 ですが、その最先端で出会う 「多様体」の類似物や「複体」がさらに複雑化していく現状を思う時、 より高々度な抽象的思考にも適応できる優れた研究者の育成が必要と なると思われます。

その場合、 非常に質の高い研究訓練 が必要となり、教官1名につき、 学生2−3名程度のかなり良質な教育環境が必要になると 思われます。現在の多人数の教育環境の下では「コホモロジー論」の うち非常に簡単な部分の習得を目標にしても、通常の大学生の場合なら 勉強を数学だけに限って4-6年費やしてもまだ大変というのが現実なの です。

こう述べるとまるで大学の教官がさぼる口実をいっているように聞こえる かもしれませんね。しかし、元来それまでの人生のほとんどを実生活から 離れるような思考訓練を受けずにきた学生達にとっては、「コホモロジー」 を作る場合に行う「無限次元の空間を無限次元の空間で割り算する」 という基本的な操作でも、すでに 心理的についてこれない のです。従って、 我々は彼らの幼児期にたちもどって、抽象的な考察を行うことへの心理的な 「恐れ」をまず取り除かなければならないのです。これがどれだけの時間と 手間を必要とするか言うまでもないでしょう。

しかも、小、中、高校での多人数での教育はあいかわらずで、理数系の授業 時間の短縮も行われ、例えば数学では、長文の「証明」をまるごと書かせて、 思考力の訓練を施す時間はほとんどなくなってしまいつつあります。これは 一人の教員が受け持つ学生があまりにも多く、長文の証明をかかせて学生達 の何十通りもの思考方法に添って、いちいちその論理の整合性をチェックして いくような時間的余裕がまるでないからなのです(特に中学校の段階で顕著の ようです)。

考えてみればあたりまえのことですが、思考力というものは、論理の整合性 だけはそこなわぬようにしながら、各自の個性にあった発想に従って自由に 展開させる訓練をすることで、初めて新しいものを産み出せる本物となるわけ ですから、こういったことが思考力の発育に重大な影響を及ぼさないわけは ないのです。他人と同じことを考える訓練をいくらしても、同じことしか 考えられないのですから、新しいものは生まれっこないのです。

その点、「証明」というのは、出発点(仮定)と終着点(結論)は共通で、 後は論理的整合性さえあれば、どのような証明をしてもよいわけですから、 自由な発想や洞察力の訓練としてかっこうのものになるわけです。特に 長文の証明であればあるほど、途中で、拠点として利用できる隠された 真実を洞察できるかどうかがその成否にかかってくるので、新しい事実 を発見する能力をも磨くことになるのです。

ところが若い世代になると、例え教員の方でも、自分自身もそう いった証明の訓練を十分に受けていないため、生徒にそういった 訓練を施すのはちょっと不得手だという悪循環さえもがすでに大 規模に日本全土で起こりはじめているということを耳にします。 このように問題はすでに小、中、高校のレベルの教育体制の中枢 でも深刻な状態になり初めているようです。

現在、大学の数学の教官で一般的に言われていることですが、新入の 大学生の思考能力の平均は徐々にしかも確実に下がりつつあります。 もはやこれから将来にわたって先進国に追随する形での国内産業の 成長が望めない日本にとっては、このまま数学の教育をなおざりに していくことは国家的に致命傷になりかねないと危惧されます。 「教育は国家百年の計」 という言葉の重みをもう一度じっくりと 味わいたいと思います。


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