日本総合学会会誌第2号掲載予定論説

総合学習を生かす二つの鍵

姫路工業大学理学部

遊佐 毅

[0]概略

この論説文では、これまでの日本総合学習学会における 各種セミナーでの勉強や議論を通じて明らかになってき た、総合学習を生かす上で有効と見られるキーポイント 2点を中心として述べてゆきたいと考えます。

どちらも、教師が総合学習の指導を行う時に意識してい るか否かで、かなりその成果にも違いが出てくるのでは ないかと思います。

この二つのキーポイントのうち、ひとつは総合学習にお ける 「最初の課題選択」 を行う場面での注意点で、もう ひとつは一連の学習の構成単位となる 「学習の1−サイクル」 の捕え方に関する注意点です。

[1]2つのキーポイントの使い方

これらのキーポイントの内容について詳しく触れる前に、 どのような状況でこれらが利用されていくのかについて、 その理由も合わせながら述べたいと思います。

そのために、まず総合学習の導入が提唱された第15期 中央教育審議会の「中間まとめ」や、今度の新学習指導 要領でも述べられている「総合学習」の趣旨について簡 単に復習しておきましょう。

そこでは「教科の枠を越えた横断的な学習課題の中から 生徒自らの興味に基づいて課題を選択し主体的・創造的 に取り組む学習活動である」と規定されています。また その課題の例示としては「国際理解」「情報」「環境問 題」「福祉」「健康」などが挙げられています。

ここで注意しておきたいのは、これら5つの課題の例示 はあくまでも例示であって、これらの課題を使ったにせ よ、もしこういった課題に関係するタイトルのついた本 を一冊与えてそれを単に丸暗記させるだけのものなら、 結果的には「従来型の学習」として批判されてきたもの となんら本質的には変わらず、「総合学習」の趣旨から かけ離れた学習が出来上がってしまうということです。

しかしその一方で、その意図することを何の布石もなく 不用意に行えば、最悪の場合、授業運営上の統制がまっ たく取れなくなり、大混乱を引き起こしかねないという 危惧があるというのも十分根拠のある主張だと思われま す。

従って「総合学習」の学習での混乱を回避し、一方でそ の意図をなるべく忠実に生かすためには、その雛形とな る学習の進行パターンを明確に設定し、その学習の進行 パターンの徹底を通じて授業運営上の統制を取っていく ことが必要になると考えます。つまり、教える内容を型 にはめるのではなく、学習の各段階で、どのような点に 意を裂くべきかということだけをパターン化するのです。

もちろん学習がかなり進展して、生徒がこういった進行 パターンに依存せずに自由自在に深い学習ができる段階 に到達したり、あるいはマンネリ化から抜け出すために 意図的にパターンを崩す必要がでてきたらそうすればよ いわけで、とにかく「総合学習」と言われてハタと困る 場合には、まずここから出発していくのが一番と考えま す。

以下ではこの「雛形となる学習の進行パターン」のこと を簡単に「学習の1−サイクル」と呼ぶことにします。

これに基づく一連の学習の進展の様子について、もう少 し詳しく述べておきましょう。

まず最初の段階では、生徒たちにその「学習の1−サイ クル」を体得してもらうために、とりあえず教師が設定 したクラス全体で取り組む共通の課題について、学習の 1−サイクルをひととおり経験してもらうことにします。 次に最初に与えた課題から派生する諸々の課題のうちか ら不完全な自主性ではあるけれど「生徒自らの興味に基 づき課題を選択」してもらい、再びこの学習の1−サイ クルを繰り返してもらいます。そしてさらに、今度は自 分達の学習から派生してきた課題について同様のことを 繰り返してもらいます。そこでは徐々にグループが小さ な単位に分かれていく可能性もありますが、それについ ては自由にさせておきます。こうして混乱がおきないよ うに徐々に統制を緩めてゆき、理想としては最終段階に おいて生徒個々人が完全に自由に自らの興味に基づいて 課題を選択し、ありとあらゆる教科の知識を総動員して 各々の学習活動に「主体的・創造的に取り組んでもらう」 ということになると思います。

もちろんこれはあくまで理想にすぎないですから、各学 校の実状に応じて最終的な段階での統制の緩やかさの度 合い、言い換えるなら最終段階での課題の選択などにお ける生徒の自由意志の反映の度合いも変わってくること と思います。

このように総合学習を行うことによる無意味な混乱を避 けながら、その一方でそのありうべき理想を目指すとい った点で、この総合学習における学習の1−サイクルの 「明確な意識化」がいかに大切かご理解いただけるもの と思います。

もうひとつ、総合学習における課題選択、特に最初の段 階で、生徒たちにその学習の進行パターンを体得しても らう目的で、教師が設定する課題の重要性についても述 べておきたいと思います。

従来型の学習においてもそうであるように課題選択の重 要性自体は敢えて強調するまでもないと思います。しか し総合学習における「最初の課題選択」は、最終段階、 つまり教師が統制を完全にはずしきった時点にまで、各 生徒の主体的かつ創造的な学習の進展に影響を及ぼすと いう点で、そこにはその後の学習のすべての種子が内包 されていなければならないため、これまで考えられてき た以上に重要性を持ってきます。つまり無限の成長力を 持ち、なおかつ教科の枠を超える必然性を生徒が十分納 得できるような課題としなければならないということで す。

[2] 学習の1−サイクル

まず「学習の1−サイクル」の方から述べましょう。

我々は総合学習のスタートにおいて、次の節で詳しく述 べるような無限の成長力を持つ課題を見つけることがで きたという前提で話を始めることにします。まず、これ まで「調べ学習」と呼ばれてきた類似の学習形態と、我 々の考える「総合学習」との違いを明確にするために、 まずはおおざっぱにその仕組みを解説をすることにしま しょう。そしてその上で、その詳細については、後で改 めて述べることにします。

普通の「調べ学習」の場合、大雑把にはその学習の 1− サイクルは

(1) 「問題の発見」
(2) 「現状調査・原因の究明など」
(3) 「対策の考案」

などのように考えられがちです。しかし我々が提案する 「総合学習」においては、その学習の 1−サイクルを

(1) 「問題の発見」
(2) 「現状調査・原因の究明など」
(3) 「対策の考案」
(4) 「考案した対策の問題点の発見」

と考えるのです。つまり Build (建設)の部分だけでは なく、必ずその後で、生徒自らの手による Scrap (破壊) を含め、 Build and Scrap (建設の後に破壊)でひとまと まりとし、これを「学習の1−サイクル」と考えるのです。

ここで特に強調したいのは、 「考案した対策の問題点の 発見」つまり「自らの手による破壊」の部分の重要性につ いてです。

このように考える利点としては次のようなものが挙げられ ます。まずそのひとつは、自らがせっかく建設したものを 自らの手で破壊することを通じて「ひとりよがりな解決に 自己満足しない冷静かつ客観的な観察眼を育成する」こと ができるという点です。すなわち最後の Scrap の段階を常 に意識することで、第三者的な視点が、生徒の心の中に常 時存在することになり Build そのものがより客観的に行わ れることになりやすいということです。これは、ひいては 「自分の立場からだけものを考える」のではなく「他人の 立場からも、ものを考える」力を養うという現代の子ども 達に欠けがちな大事な能力を育てることにも通じます。

またもうひとつの利点は「ひとつの解決に満足せず、どこ までも問題のよりよい解決を追求する根気を体得する」と いった、現実の問題への対処において 一番大事なものを経 験し体得してもらえるということです。

−−*−−

ここで少々脱線しますが、ついでに総合学習において「教 科の枠を越える」ことを容易に行うための工夫についても 述べておきます。それは一言で述べるなら「データを重視 した客観的な考え方」を常に忘れないということです。

ややもすると、日本では「文科系」、「理科系」という考 え方があるため、「理数的なものの考え方」と「人文社会 的な考え方」に個々人で境界線をひいてしまい、結果的に はそれぞれの嗜好に応じてどちらか一方に偏った考え方に なりがちです。そしてこの「総合学習」の課題の5つの例 示で出てくるものは、どちらかというと「人文社会的」、 もしくは「生活技術」と捉えられがちなものであるがため に、それを専門に研究されている方から見ても、客観性無 視のかなり偏った取り扱いをして満足してしまいがちです。 しかしながら、日本総合学習学会の英語名:Japan Association of Integrated Science and Educationでも Science と単数形でひとまとめにして自然科学や 人文社会科学を総称しているように、それらは欧米でも元来 ひとつのものと考えられていたのであってその線引きは、 あくまで便宜的なものにすぎないのです。そこで、必要に 応じて「理数的なものの考え方」へも自由に移行できるよ うに「データを重視した客観的な考え方」を大事にしようと 提案しているわけです。

もちろんこれは「データのみを重視する」ということでは ありません。例えば「福祉」のような問題を考察する場合 には「人間としての共感」といった感情を含めた意味での 「感覚的な考え方」も当然ながら大事なことです。しかし、 そういった場合でも「感覚的な考え方」だけを取るのでは なく、常に「データに基づく客観的な考え方」も一緒に合 わせて忍耐強く学習を続けるということが非常に大事なの です。

もちろん場合によってはこの二種類の考え方が異なる結論 をもたらす場合もあります。実はこんな時こそが非常に得 難い教育的な機会となるのです。

「統計で嘘をつく方法」などでもよく取り上げられること ですが、データも取り方や処理方法次第では、人間の感覚 にはまったく合わないような奇妙な嘘の結論をもたらして しまうこともあります。その点では、「データのみでもの を考える」ことの危うさが見えてきます。

しかし、その一方で「データに基づく客観的な考え方」か ら、実は「感覚的な考え方」のもつ盲点に気づく場合もあ ります。例えば「感覚的な考え方」によれば「身の回りに 抗菌グッズが増えれば増えるほど、身の回りのばい菌も減 り病死者も減る」ですが、抗菌加工物が安易に増えすぎま すと、今度は「薬剤耐性菌」の出現が促され、逆に病気に なっても「抗生物質」などが効かないといったような深刻 な事態が起きやすくなり一概には「病死者の数が減る」と は言えなくなってしまいます。

こういった場合でも、統計データの調査などから「感覚的 な考え方」と異なる結論が出た時点で、その食い違いの原 因について思いを及ぼしてさらに本やインターネット検索 で調べたり、あるいは長期間にわたって身の回りの抗菌グ ッズについたばい菌を寒天地などで培養する追加実験をし てデータを集めることを繰り返したりしていけば、実は最 初の「感覚的な考え方」の結論が誤っていたことがはっき りしてくるでしょう。

その他、より感情に近い「感覚的な考え方」の盲点の一例 も挙げておくと、「貧困などによる社会的弱者へは生活支 援をすればするほど幸せを感じてもらえる」というものが ありますが、これも住所不定の日雇い労働者のうちで行政 側で用意した宿舎で生活する者と路地で生活している者の 人数を調べてみれば、型通りの生活支援では満足が得られ ていない可能性が出てくることがわかると思います。こう いった認識は、例えば被災者支援のボランティア活動を行 う時にでも参考になることが含まれていると思います。

このように「感覚的な考え方」と「データに基づく客観的 な考え方」の両者のもたらす結論が矛盾なくなるまで「デー タを取り直し」たり、その「食い違いの原因についてあれ これ考えてみる」といったことは大変貴重な経験をもたら してくれることでしょう。つまり異なる両方の「考え方」 を合い補わせて「考えを深める」という経験をすることに よって、それぞれの「考え方」のもつ長所と短所にも気づ くようになりますし、「物事をより深く考える」習慣も身 についていくようになっていきます。こういった「物事を 深く考える」能力は健全な一般市民を育てるという学校教 育の観点からも重要なことなのではないでしょうか。

−−*−−

ここからは元にもどって、上で述べた「学習の1−サイク ル」の各段階について、もう少し詳しく説明することにし ます。ただし、これはあくまでも強引に順序付けをしたも のであって、状況によっては順序が前後したり省略される 場合もあると思います。

(1-1) 問題の発見
(1-2) 問題の表現と定式化

(2-1) 現状の調査、資料の収集
(2-2) 調査結果や資料のまとめと整理
(2-3) 調査結果や資料の分析・理解
(2-4) 原因などについて仮説を立てる
(2-5) 仮説の検証((2-1)から(2-3)の繰り返し)

ここで仮説が実証され、十分に原因などを始めと して状況が理解できたと思われる場合には以下へ 進む

(3-1) 解決方法や対策の考案
(3-2) 解決方法や対策の考案の有効性の検証
(ある程度有効なものが得られるまで(3-1)から (3-2)の繰り返し、場合によっては(1-2)からや りなおし)

ある程度有効な対策が得られた場合には以下へ 進む

(4-1) 解決方法や対策についての新たな問題点 の提起

ここでも場合によっては(1-1)から(4-1)までのス テップを何度か繰り返し自分たちがある程度納 得できるまで学習を深める

(4-2) 発表・報告

まず最初に混同しがちな(1-1)と(1-2)の違いについて説 明します。一般に「問題」といっても、「漠然と感じる 問題」と調査、研究の目標となる明確な「定式化された 問題」とは異なります。例えば「ここ数年で川や海が 臭くなったか?」というのは漠然とした問題ですが、 「ここ数年で河川から発生する硫化水素の量が増えた か?」というのはただちに調査可能な問題です。もちろ ん「ここ数年で川や海が臭くなったか?」ではなく「こ こ数年で川や海が臭いと感じる人が増えたか?」という なら、これもりっぱに「定式化された問題」となります。

なお、場合によってはここの段階に(2-4)の「仮説を立 てる」が一部混じり込んで来ることも注意すべきでしょ う。例えば「ここ数年で河川から発生する硫化水素の量 が増えたか?」という問題の場合には暗に「臭気の原因 は硫化水素である」という仮説が入り込んでいるわけで す。

それからここで、「ここ数年で川や海が臭いと感じる人 が増えたか?」という問題から出発した場合と「ここ数 年で河川から発生する硫化水素の量が増えたか?」とい う問題から出発した場合では調査研究の進み具合がかな り異なってくる可能性があることにも注目して下さい。 前者の問題では臭いと感じる人が増えていたことがわか っても、次の原因解明のあたりでかなり難儀することに なるでしょう。その一方で後者の問題の場合には肯定的 な結果が出ればその後の部分でも大きく進展させること ができますが、否定的な結果が出た場合は「自分の気の せいだった」という可能性も含めて考えなければならず、 ほとんど振り出しにもどってしまうことになるわけです。 このように、なんらかの調査・研究を始める以前に問題 を明確に表現し定式化することは大変重要であって、そ の後の成果にも大きく影響することに注意してください。

その次に注意すべきなのは(2-2)と(2-3)の区別です。 (2-2)の方は生のデータを表やグラフ化する作業であるの に対し、(2-3)のほうはデータを加工する作業(とその方 法の選択)も含まれています。例えば(2-2)で人口や工業 生産高を調べたとしたら、調査目的に応じた数量、例え ば「豊かさ」を数量化したければ、工業生産高を人口で割 って1人あたりの工業生産高などを計算するといったこと が(2-3)にあたります。もちろんここでどのようなデータ の加工をすべきかという選択そのものもその後の成果の出 来不出来に深く関わることは改めて注意する必要もないで しょう。それは、ここの段階にも(2-4)の「仮説を立てる」 ということが一部混じり込んで来ているからです。例えば 上の例では「豊かさ」と「一人あたりの工業生産高」が直 結しているという仮説が暗に入り込んでいるわけです。そ してこういった暗に入り込みがちな仮説を明確にしておく ことは、後で状況解明などに混乱が生じてきた時に非常に 役に立ちます。

(4-1)と(4-2)の順序についても述べておきます。これも なるべく(4-2)の発表前の段階において自分たちの手で 丁寧にそれまでの経過を振り返って出てくる新たな問題 点、例えば自分たちの考案した対策を別の視点から見た 時の問題点や欠点などを挙げてそれらについても調査、 対策の考案などをしておくことが望ましいのですが、場 合によっては発表後にその学習グループの外部からの指 摘によって初めて見落としていた問題点が浮かび上がっ てくることも有るでしょう。もちろんそれはそれで意義 のある経験となるでしょう。

ある意味では教師の力量が一番問われるのはこの最終の (4-2)の段階です。それまでの生徒達の学習努力をその 努力に応じて誉めることは大変大事なことですが、一方 で彼らが見落としているような問題点をなるべく高い見 地に立って1つか2つ(問題点すべてを指摘する必要は ありませんし、仮にそれが可能であっても、それを実行 することは「依頼心」を生む結果を招くので決していい ことではありません)ぐらいは見つけ出して指摘するこ とでしょう。このことは生徒のせっかくの学習意欲をそ がないためにも総合学習の開始に先立って生徒達に「先 生から生徒達への挑戦」として宣言しておいたほうがい いかもしれません。もちろんここで先生がなすべき「問 題点の指摘」は広い見地に立つものであればあるほどよ いわけで、こういったときにこそ、これから「日本総合 学習学会」などで築きあげていく人間のネットワークが 非常に役に立つと信じます。

[3] 最初の課題選択

さて、上でも述べたましたように、「最初の課題選択」 は無限の成長力を持ち、なおかつ教科の枠を超える必然 性を生徒が十分納得できるようなものでなければならな いわけですが、どのようにしてそういった課題を捜し出 したらよいかということについて述べたいと思います。 なお現在、学会の作業部会で開発中の教材の中にはそう いった「最初の課題」にふさわしい課題がいくつかあり ますので、詳しくは別の機会に改めてご紹介したいと考 えます。

実は、一言で述べるなら、「身近な問題であって大人達 ですら未だ解決策を得られていない問題」を選べば、自 動的にこういった条件を満たす「最初の課題」となると 考えております。

例えば5大テーマと言われている「国際理解」「情報」 「環境問題」「福祉」「健康」といったものについて も、よく考えてみますと、大概は ジレンマらしきもの があって、未だに解決できない深刻な問題点がたくさんあ ることに気づきます。そしてこういった問題の解決を探 ろうとすると必然的に相い対立する2つの対象について それぞれに深く調べる必要が出てくるため、結果的に無 限の成長力を持った課題を我々にもたらしてくれるわけ です。

これを読まれてる方の中には、「大人ですら難しい問題 なのだから、ましてや子供たちには無理だ」と考えられ る方もいらっしゃるかもしれません。しかし、総合学習 というものは「正解を知識として覚え込ませる学習」で は決してないのです。そして彼ら生徒は近い将来、大人 となって社会を支える人々となるわけですから、むしろ そういった問題がどうして解決が難しいのか「より深く」 理解しておく必要があるでしょう。よく生徒達は「大人 が妥協しやすい点」を指して「大人は汚い」とか「大人 はずるい」とか安易に口にしがちです。もちろんその全 てが誤った主張ではないのですが、一方でそれが世代間 のギャップを広げる原因になったりしがちであることも 否定できないでしょう。だからこそ、その全てではなく とも現実の問題解決の難しさに少しでも触れてもらうこ とは大事だと考えます。難しい問題であればあるほど、 何が、どうして、どのように難しいかを知ることこそが その問題解決へ向けての第一歩となるからです。

ここで5大テーマと言われている「国際理解」「情報」 「環境問題」「福祉」「健康」といったものについて、 そのジレンマらしき部分をいくつか実例を挙げて明らか にしてみましょう。

まず「環境問題」および「福祉」についてです。この 場合、よくアンチテーゼとして出されるのは「経済」 です。会社や自治体にしてもむやみに環境対策や福祉 政策を実行してしまうと倒産、不況とか財政破綻とい ったものを起しますし、逆に景気や財政効率一辺倒で 考えれば環境問題や福祉はおざなりになってしまうわ けです。しかしこれについても少々深い立場から見直 してみると完全なアンチテーゼではないことも徐々に 明らかになってきます。ここが非常に面白いところで す。例えば会社の環境対策への投資では設備や技術開 発への費用がかかるため、それが価格競争力を弱め、 結果的に会社の競争力の足をひっぱると信じられて来 ました。しかし、これも近年では、環境対策を逆手に とって他社の製品と自社の製品の差別化を行なうセー ルスポイントのひとつと考えれば、これはその企業の 躍進のチャンスへと早変わりするわけです。実際のと ころ、先進的な会社では「SUSTAINABILITY REPORT」 の国際標準に沿った情報開示などいといった形で、む しろ環境対策を積極的に行ない初めていることも付け 加えておきます。

同様のことを「情報」についても考えてみましょう。 例えば「情報技術」は便利なものと考えられていま す。しかしご存知のように、一方では、コンピュータ ウイルスの感染、盗聴、乗っ取り、そして情報の改竄 を始めとする不正や犯罪の温床にもなりがちな非常に 危うい面をも持っています。こういった点も含めて情 報技術の取り扱いに慣れることはこれからの時代を生 きていく上で大変大事なものとなっていくでしょう。 しかしここでもそれらを知識として身につけただけで は、情報技術のこの急激進展の中で、あっという間に その知識は陳腐化してしまいます。例えば「電子メー ルではウイルス感染は起きない」というのが以前は常 識でした。そのため、「電子メールで感染するウイル スが出現した」という内容のチェーンメール(不幸の 手紙の類事物)化を狙う悪戯目的の電子メールは、慣 れた人の手で直ちに廃棄処分にされたほどです。しか しどうでしょう?最近ではすっかり有名になった「メ リッサ」を始めとして、電子メール経由で感染するマ クロウイルスは山のようにあります。実はここには情 報の複製の作りやすさや加工のしやすさといったもの の長所と短所が隠れているわけです。

このように、先々も見通して技術の裏表ありとあらゆ る可能性を考える力を養うことはとても大事なわけで す。だから普通に考えられている情報リテラシーのよ うに単にコンピュータの使い方や便利さを習得させる だけでなく、一方でその危険性やそれ以外の短所、例 えばマルチメディア時代とは呼ばれていてもインター ネット経由で伝えることができるのは文字、画像や音 声といった視覚、聴覚に関わるものであって、味覚、 嗅覚、触覚といった情報が伝えにくいこと、などを理 解してもらうことも重要だと考えます。それには、生 徒達が自分たちの手で、例えば味覚や嗅覚を料理のレ シピのような感じで相手に伝える方法を考案したり実 験してみるというのも面白いことかもしれません。つ いでに付け加えておくなら、こういった経験こそが、 将来我が国において、味や匂いまでをも伝えるような 今までにない、全く新しい情報技術を生み出していく 切っ掛けともなるかもしれません。

「健康」関連では、もちろんエイズ予防のための知識 獲得なども大事な課題でしょうが、HIVウイルス用 の治療薬AZTを始めとする薬剤に対して耐性をもつ HIVウイルスの出現などから始めて、抗生物質の安 易な投与や畜産業での抗生物質の飼料への配合とMR SA(耐性ブドウ球菌)を始めとする多剤耐性菌の出 現の関連性、また母乳内のペニシリン残存とアナフィ ラキシーショックの多発の関連性などといった医療技 術の功罪両面を学習することは大事なことでしょう。

「国際理解」については単に英語などの外国語を勉強 すれば国際理解につながると考えるむきも多々見られ ます。しかし実際に「国際理解」をまじめに考え直し てみますと、言語を習得するだけでは容易に乗り越え られない各地域、各民族の風習、宗教、文化の違いと いったものがまずあり、さらにその奥には単なる「善 意」のみの解釈では押し通し切れない、非常に難しく 微妙な部分さえもが隠されていることに気づかされま す。

その典型例はアメリカ合衆国と我が国の関係に見るこ とができます。これだけ多くの日本国民が英語を学び、 さらには映画、テレビ番組を通してアメリカ合衆国の 風習、文化などに触れているにも関わらず、依然とし て貿易摩擦を始め、日本とアメリカ両国の結びつき は深いとは言いいつつも盤石のものと言い切れるもの では決してありません。この両国の結びつきが本当の 意味で安定したものとなっていくためには、多分、諸 々の分野で相互の国益に関わるような深刻な問題に関 して、これまで以上に厳しくギリギリの議論、口論、 折衝をするといった長い時間の積み重ねが必要となる でしょう。もしそれをせずに、例えば根拠のない批判 をただ黙って甘受し堪え忍ぶだけでは決して真の相互 理解は生まれないでしょうし、場合によっては相互の 国民の間に不信感をかえって増幅してしまい、相互理 解はおろか戦争回避すらままならない状況にさえ押し 込まれかねません。つまり、相互理解には非暴力的で はあるものの、なんらかの「理性的な闘争」が時には 必要となるのです。実は戦争のような暴力行為を押え つつも「理性的な闘争」を行うときに必要不可欠と なるのは、やはり「データに基づく客観的な考え方」 なのです。

上で述べたことについて、もう少し具体的な点を挙げ て説明してみましょう。例えば最近話題になっている 「規制緩和」の話について考えてみます。ここには アメリカ合衆国のいう「国際標準」や「公平性」とい った理論武装の根拠が密接に関わってきます。こうい った根拠は表面的には大変聞こえがよい主張に聞こえ ます。しかもよくアメリカは日本を「不公平」という 事で非難します。またアメリカ製のB級映画(つまり アメリカ国内向けに制作した作品)を見ていますと、 出演している日本人の役は「不公平」とか「ズルイ」 とみなされる行為をして最後に主演のアメリカ人に成 敗されるというストーリーがよく見られますし、そう いったものをあまりにも数多く見せられますと当の日 本人ですら「日本人はズルイ」と錯覚してしまうほど です。そして口にこそ出しませんが、心のどこかで 「日本人はズルイ」という固定観念すら持っているよ うなアメリカ人もけっこう多いのです。しかし保険分 野での規制緩和に関する両国の衝突や、遺伝子改造食 品に関する表示義務問題でのアメリカ政府のこれまで の行動を調べてみますと決してアメリカが「公平」と は言えないことがわかってきます。このあたりはデー タをいろいろ取って調べてみると面白いことが出てく るでしょう。ただしそのデータは英語で書かれている ものが多いですから、例えば翻訳ソフトであらかた訳 しておいて、必要なところは人間の手で詳細に翻訳の 修正を加えるといったことで英語の勉強をしながらい ろいろ調べる必要が出てくるでしょう。ここでもう一 度振り返ってみると、我々の目的は、「国際理解」で あって例えアメリカという国の悪い面を知った上でも 「アメリカを敵視」するのではなかったはずです。こ のあたりまで考えてくると初めて「国際理解」という ものが如何に難しいものかが見えてくるのではないで しょうか?

「規制緩和」に関してもうひとつ大事な問題が出てき ます。これは両国民のもつ人生観やモラルなどに密接 に関わってくる問題です。例えば「アメリカなみの規 制緩和」という状況を完全にこの日本で実行した場合 に、何が起こるか考えてみます。これはある意味で近 い将来の日本の姿を占うことにもなるはずです。まず、 企業間の競争激化も招きますから、多くの人々にとっ ては突然の失業の可能性がさらに増大していきます。 また、貧富の差も極端に激しくなって数パーセントの 人間が国の大半の財産を所有するようになります。 しかもアメリカなみの行政による強力な監視機関は日 本にはありませんから、ただでさえ詐欺などの経済犯 罪が多発しやすい状況がよけいに増幅され、ここでも 弱肉強食の度合いがより激化していきます。このよう な状況になりますと当然、一般の犯罪も増大します。 また、例え失業者向けの雇用事情がよくても、職業が 頻繁に変化するのがあたりまえの状況になると、職業 人としてもモラルも変化し、平社員クラスの人々は自 分の所属する会社の信用などについてもまったく意に 介さない状況になります。その例としてはスーパーマ ーケットで買い物をする場合にはレジを通る前に電卓 で支払い金額を確認しておかないとレジの人に支払い 金額を誤魔化されてしまうといったようなことです。 同様のことは銀行や警察など、社会のありとあらゆる 所でおきます。しかも殺人といった凶悪犯罪ですら急 増してしまいますと、警察の検挙が間に合わなくなり、 かなり野放しに近い状況になります。こうなると命の 安全も含めて、ありとあらゆるところで「自衛」を意 識しなければならない社会となります。こうして、 「そういった社会がこの狭い国土の中で生きる日本人 にとって果たして幸せな人生をもたらしてくれるのだ ろうか?」という課題に行き当たるわけです。

[4]補足

総合学習は「未来」を生徒達に託すための学習と考え ることができます。従って「出藍の誉れ」の諺にもあ るように、生徒がいつかは乗り越えるはずの教師が 「未来」に関する知識の全てを知っているはずはない し、その必要もないのです。だから教師が知らないこ とがあっても恥じることはまったく必要はないのです。 このことは総合学習の始めにあたって生徒達に明言し ておいてもよいかもしれません。教師にここで出来る のは問題点の指摘や答えを捜す時の捜し方のアドバイ スを与えるぐらいのことです。もちろん指導した方法 で必ず答えが見つかるとも限らないことも衆知徹底し ておくべきでしょう。(この点については最初の学習 の1−サイクルの過程で、ファミコンのRPGを真似 て「答えの見つからない捜し方」をいくつか混ぜて仕 組んでおくのも効果的かもしれません)

いずれにせよ我々は現実に直面する多くの問題におい て、どこまでも冷静に現状を認識する努力をしながら、 一方で何度も試行錯誤を 繰り返し、BESTではなくても、 わずかながらでもBETTERなものを目指しな がら問題 解決を続けなければなりません。ですから、生きる力 を身につけるための総合学習においても同様の習慣を 身につけることが必要となってくるのです。

[5]最後に

この日本総合学習学会自身を、「総合学習について総 合学習するための団体」であると考えることができま す。そしてこの論説の内容についても、あくまでひと つの叩き台であって、これを元にいろいろ試行錯誤さ れた結果、現場の先生方からここで述べたものとはま ったく異なる意見や結論などが出てくる可能性も十分 あると考えています。そこで今後の議論をより建設的 なものにしていく意味で、できれば反論や修正意見を いただく場合にも 実践から得られた生のデータ を御提 示いただければ、と考えておりますのでよろしくお願 いいたします。

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